日本のロータリー歴史


福島 喜三次(ふくしま きそじ)/1881〜1946


日本人第1号のロータリアン。そして、ロータリークラブを米山梅吉に紹介し、彼とともに日本にロータリークラブを創設した人。佐賀県の有田出身。

三井物産に勤め、1905年渡米、1915年にダラスRCに入会。1920年帰 国し東京RC創立会員になったものの、大阪転勤により1923年、大阪RC創立会員ともなりました。この年に関東大震災が発生、彼はクラブ幹事として、世 界の各クラブからの救援物資を東京へ輸送するなど、大活躍しました。大変誠実な人として知られ、座右の銘は「利他即自利」


米山 梅吉(よねやま うめ きち)/1868~1946

 

日本のロータリーの創始者。よって、日本ロータリーの父「Father of Rotary in Japan」と称されます。渡米中、ダラスロータリークラブ(RC)のロータリアンになっていた福島喜三次の紹介により、彼はロータリークラブと出合いました。そして帰国後の1920年10月、米山梅吉は東京RC を創立し会長に就任しました。幹事は福島喜三次です。これが、日本のロータリークラブの第一歩となりました。その後、彼は1924―26年度国際ロータリー(RI)のスペシャル・コミッショナー、1926―27年度RI理事(日本人初)、1928-31年度第70地区(当時)ガバナーなどを歴任していま す。

ロータリー関係の主な翻訳書に、 ポール・ハリスが著した『ロータリーの創設者ポール・ハリス』、『ロータリーの理想と友愛』があります。また1952年、東京RCは彼の功績を記念し、日本で学ぶ外国人留学生に対して支援を行う「米山奨学制度」を構想しました。現在の 「ロータリー米山記念奨学会」です。彼は1946年4月28日、長泉にて逝去。お墓は記念館近くと横浜市の総持寺の2か所にあります。


芝 染太郎(しば そめたろう)/1870~1949

 

日本ロータリー史上最悪の受難期とされる1938~40(昭和13~15)年代に、日本のロータリークラブの「専任幹事」を務めた人。愛媛県の吉田出身 で、東京RC会員。「英語の達人」であり、昭和初期には『Japan Times』の社長でもありました。1939年6月には、全権を委任され、一人アメリカのクリーブランド国際大会に出席。得意の英語を駆使して、日本ロー タリーの生き残りを賭け「日満ロータリー連合会」を誕生させたことで、知られます。


手島 知健(てしま ともたけ)/1885~1968

 

1952-54年度RI理事(日本人で3人目)。東京RC会員。1949年、東京RCが戦後国際ロータリーに復帰したときの、1949-51年度第60区 (当時は日本全土で1地区を形成)のガバナー。あふれる国際性と洗練された物腰をもつ彼は、戦後、日本ロータリーが再出発したときの、大きなけん引役とな りました。かつて、RIの日本語翻訳決定権は彼に委譲されており、「四つのテスト(The Four-Way Test)」の翻訳をとりまとめ、定訳をつけたことでも知られています。


東ヶ崎 潔(とうがさき きよし)/1895~1992


日本から出た初のRI会長(1968-69年度)。会長時のテーマは「参加し敢行しよう!(PARTICIPATE!)」。1949年、東京RCに入会。 1957―58年度第355地区ガバナー、1963―64年度RI理事。米国サンフランシスコ生まれの彼は、戦後、ロータリーの先達者・芝染太郎氏と同じ く、Japan Times社長を務めました。国際基督教大学の創立者の一人でもあります。「ジョージ」という名で、世界中のロータリアンに親しまれました。


向笠 廣次(むかさ ひろじ)/1912~1992


日本から出た二人目のRI会長(1982-83年度)。国際的にも著名な精神科医でした。テーマは「人類はひとつ 世界中に友情の橋をかけよう (MANKIND IS ONE Build Bridges of Friendship Throughout the World)」。 1982年、ボカラトン国際協議会で「人類は疑いもなくひとつの家族です。さあ、皆さん、左右にいるオジサンやイトコと初対面のあいさつをしてください」 と述べたのは有名。
1967-68年度第370地区ガバナー、1978-80年度RI理事などを歴任。生まれは福岡県の久留米市。大分県・中津RC会員。